水葬

物書きブログ。
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苔生して

 あるところに一匹の鬼が居た。鬼は全身が緑の苔にまみれ、長い白髪も枝のように折れ曲がって醜い姿をしていた。二本あるうちの角が一本折れていて、それを首輪にしてぶら下げていた。様子を見るに、疫神に侵された鬼だろう。病を負った鬼はこうして苔が生え、終いには石に変わってしまうのだった。
 鬼の足元には娘が倒れていた。大木の幹に寄りかかり死を夢見て眠っていた鬼には、その娘がいつ頃ここにやってきたのかわからなかった。娘は小さな身体を揺すり、苦しそうに呼吸していた。人間の事情には疎い鬼だが、この娘が酷く弱っているのには気がついた。
 気まぐれか、単なる興味だったか。鬼は腕を伸ばして娘にそっと触れた。触れるまでに長い時間が掛かった。数十年もこうして座り込んでいる鬼の身体はすっかり固まってしまっていた。
 赤らんだ娘の頬にそっと指の側面を付けた。じんわりと熱が伝わって、鬼は目を細めた。
「……お……あ……」
 娘が何かを言った。「オッカア」と鬼にはそう聞こえた。人の言葉で母という意味だ。母とは、おのれを産んだ、人間の女のことだ。
 鬼は娘の命が残り少ないことを知った。疫神に侵された鬼には、娘の身体を蝕む病魔の影がよく目に映った。影は娘の喉元を締めあげ、今にも殺そうとしていた。
「…………」
 鬼はしばらく、考えた。そして考えた後、娘に触れたままの指を動かして、喉元へ向けた。娘の首にかかっている輪を指で引っ掛けるようにして、くいっと動かすと、呆気無く影は霧散した。影は文句でもあるのか、鬼の方に向かってきて角のあたりに漂ったあと、周りの景色に馴染んで消えてしまった。
 娘の呼吸が徐々に穏やかになってきた。何故、病魔が娘を蝕んでいたのかと思ったが、娘が胸元にかかえていたものを見つけて合点がいった。青い花を付けている草はこのあたりに生えている薬草だった。薬にすると効能がよく、それを疫神が嫌って、草が生える辺りに呪いをかけたのだ。
 鬼は初めて疫神を疎ましく思った。そしてミシリ、ミシリと音を立てながら身体を大木から離すと、娘を両腕で抱え上げ、森の奥へと消えていった。


 目覚めた娘はとても驚いた顔で鬼のことを見た。なにせ鬼の顔は、生物の皮かと思えないくらいにひび割れて、目は落ち窪んでまるでギラギラと光る石なのだ。おまけに身体にはびっしりと苔が生え、爪も伸びて今からお前を切り裂いてやるぞと言わんばかりに娘を睨んでいたので、娘は只々驚いてしまった。
 娘は悲鳴を上げたい様子だったが、喉が張り付いて声が出ないのか、先程からか細く息を漏らしたままヒュウヒュウと呼吸していた。
 鬼はそっと、清流から汲んできた水を娘に渡した。容器も虫一匹ついていない葉から編まれていて、とても綺麗なものだ。
 娘は差し出された水と、鬼の顔をまじまじと見るばかりで、動く様子はなかった。そこで鬼に考えがひとつ生まれた。動かないのではなく、動けないのではないか。鬼は慎重に、震える手で娘の頭を持ち上げると、容器を口元にやって水を飲ませてやった。こくこくと娘の喉が動くのを見て鬼はほっとした。
 しばらくして、声が出せるようになった娘は鬼を見て「ありがとう」と言った。同時に僅かなほほ笑みを浮かべ、娘はもう一度意識を失った。

 次に娘が目覚めたときに、娘の名を聞いた鬼は、次いで、娘が積んできた薬草のことも聞いた。母親が病気だそうで、それに効く薬を作ってあげたいのだという。鬼にはその薬の知識があって、他に何が足りないのかを教えてやった。そして手伝ってやろうかと申しでると、娘は嬉しそうに微笑んで「ありがとう」とまた礼を言った。
 はじめこそ娘は鬼のことを怖がっている様子だった。しかしすぐその心根に気づいたようで、よく無邪気な笑みをしてはしゃいだ。鬼はそれを向けられるたび落ち着かない気持ちになった。
 完成した薬を渡し、森の出口まで送って、手を降って娘と別れた。娘はたいそう鬼に感謝した様子で、何度も何度も振り返って鬼との別れを惜しんだ。鬼は娘が見えなくなるまで、じっとその場から動かずに見送った後、何も言わずその場を後にした。



 娘が姿を見せたのはあれから一月ほどが経った頃だった。
 鬼は今までと同じように大木に背をつけてじっとしていた。しかし、目は開いていた。そんな時、ぼうっと空の青さを見つめていた鬼の元に、覚えのある足音が聞こえてきた。
 二度目に見た娘は何やら焦っている様子だった。鬼を見つけると、娘は決心した様子で力強く鬼を見つめた。
「……どうした」
「おねがい、おっかあを助けて!」
 鬼はしばらく考えた。
 例え娘の願いだろうと、鬼が、安々と人の頼みを聞いてやるのは道理に反した。
「……ずいぶんと気安い娘だ。よほど命が惜しくないらしい」
「あたしの命なんてどうでもいい」
 なぜだか、その悲鳴のようにあげられた言葉が、鬼には癇に障った。
「おっかあが……おっかあの病気が治らないの……ううん、また悪くなって……とても苦しそうで……」
「村には、薬師がいるだろう」
「村のオジジも、もうだめだって。手遅れだって……」
 娘は顔を手で覆って泣きだした。
 よく見ると娘の格好は酷く汚れていて、むき出しになった足には血が滲んでいた。

「……おい、いい加減、泣き止んだらどうだ」
 娘は泣くばかりで、一向に言葉を話さない。鬼は鬱陶しくなって、
「……お前に差し出せるものはあるのか」
 と聞いた。
 娘は泣きながら首を振った。娘は貧乏で、とうてい母の命に見合うようなものはなかった。娘は途方に暮れたような顔をして鬼を見た。鬼はじっと、娘の首辺りを見ていた。合わせ目がずれて白い肌が覗いていた。その肌から、枝葉で切ったのか、赤い血が滴り流れていた。
 鬼は娘を指さした。赤い目と、鋭い爪が、娘をじっと睨みつける。
 娘はコクンと頷いた。対価が見つかったことに安堵して、笑みすら浮かべた。


 鬼の目からも“おっかあ”の時間は残り僅かであることが知れた。病魔の影は見えないので、身体の内側を侵されているのだろう。目も耳もきこえないらしく、鬼が側にいてもただ苦しそうに胸を上下させるだけで、娘の帰宅にも気づいていない様子だった。
 娘は母の傍らに座る鬼を不安げに見つめた。
 鬼はそっと手を伸ばすとその手で母の額に触れた。すると、しばらくして、母の呼吸が穏やかになった。

 数日の間、母は穏やかに眠っていたが、やがて息を引き取った。娘は物言わぬ母を前に、ただ静かに佇んで、そのうち「……おっかさんを、眠らせてあげなきゃ……」と言った。
 村人たちと協力して娘は母を弔った。鬼は姿が見られるといけないので、一旦森に帰っていた。数日経って、娘の家に行くと、娘は部屋の中で一人小さくなって泣いていた。鬼は何も言わず縁側に腰を下ろした。娘はいっそう泣き声を募らせて涙した。

「ねえ、まだ食べないの?」
 娘が目を赤くしたまま言った。
 鬼が娘の元を訪れて十日ほどが経っていた。母が死に、気持ちの整理がつかないでいた娘だが、ここにきてやっと鬼のことを考える余裕ができていた。
 しかし鬼は黙ったまま、何も言おうとしない。ぼうっと庭の様子を見ていた。それから幾度か風が吹いて、鳥が何回か鳴いた後、鬼はやっと口を開いた。
「……食おうにも、肉が足らんな」
 娘は目を見開いた後、くすりと笑って、
「じゃあ、これからいっぱい食べなくっちゃね」と言った。

 それからの日々は穏やかに過ぎていった。娘は鬼の助けを借りてなんとか暮らしていた。鬼は自ら進んで娘の手伝いを申し出ることはなかったが、たまに気まぐれに森の動物を狩ってきたり、野草を摘んできたりして娘を喜ばせた。
 幾年が過ぎ、娘の背は鬼の腹あたりまで伸びた。娘は時折「ねえ、まだ食べないの?」と鬼に尋ねたが、鬼は言葉を濁すだけで、今と答えることはなかった。
 いくつもの季節が過ぎ、娘は女になった。年頃になった娘には結婚の話が多く寄せられたが、娘には呪われているという噂があって、どの話も水に流れてしまった。「ねえ、まだ食べないの?」
 季節が変わると、娘は必ずそれを言った。鬼も考えるように黙りこんで、ぼうっと遠くを眺めながらいつも違う言葉を口にした。
「……あの庭の花が咲いたら、食おう」

 花が咲き、庭の木々が葉を落とし、隣のジジが死んで、野良猫が子供を産んでも、鬼はまだ娘を食べなかった。しかし時々、物欲しげに娘をじっと見ていることがあって、そういう時娘はとうとう食べられるのかと落ち着かなくなった。しかしその心配はいつも杞憂に終わって、娘はがっかりしたようなホッとしたような気持ちになった。

 ある日、娘の髪が真っ白に変わっているのを見て、鬼は過ぎた時間の長さを知った。枯れた花は子を残して、その子がまた見事な花を咲かせている。生まれたばかりだったはずの野良猫もいつの間にか大きくなって、身体を器用に操って庭の木に登っている。
 張りがあって瑞瑞しかった娘の手は枯れ枝のようにやせ細り、鬼の声も容易に届かなくなった。それでも娘は、季節の変わり目には必ず「ねえ、まだ食べないの?」と少女のような口調で聞いた。鬼の返す答えはいつも同じだった。

 とうとう娘が朝に起きて来なくなった。床についたままぼうっと庭の眺めていることが多くなった。鬼は壁際に座って、じっと娘のことを眺めていた。娘は穏やかな顔をして眠っていた。
 ふと、微睡んでいた鬼が眠りから覚めると、娘が何か言っているのを聞いた。
「ねえ、まだ食べないの?」
 かすれていて、ほとんど音になっていなかったが、長い間ずっと聞いてきた鬼にはわかった。
 娘はうっすらと微笑んでいる。目は見えなくとも、鬼がそこにいることはわかるようで、手を布団から出して、先を鬼の方に向けている。鬼もそっと手を伸ばして、その指先に触れた。皮と骨だけになった娘の指は不味そうだった。
「……もう食えん。お前の身体は骨ばかりだ」
 娘が笑ったように口元をほころばせた。
 娘はしばらくして息を引き取った。目元には涙が滲んでいた。チチチ、と鳥が鳴いて光が指している縁側に降り立ち、仲間を連れて再び飛び立っていった。









 鬼はしばらく亡骸の側にいた。一度は食おうと思ったが、手を握ったところで何故か気が進まなくなった。それから数日、数ヶ月と過ぎ、亡骸はいつしか腐り、腐肉からは骨が覗きだした。食べごろを完全に逸しても鬼には全く食べる素振りがなかった。一日の半分を、じっと亡骸に目を注ぐことで過ごして、夜も亡骸の側で眠った。腐肉に沸く虫達は鬼がみんな潰してしまった。虫を追い払っているだけで一日が過ぎることもあった。
 肉は溶けて、とうとう骨だけになった。そうなってやっと鬼は娘に手を伸ばした。小指の骨の一本を掴みパキンと折った。小枝のような脆さだった。ガリガリと丹念に歯を使って食べ、口の中に残ったかけらは舌で拭って食べた。鬼は一日に一本の骨を食うことにした。それで一年ほどが過ぎた。
 鬼は頭蓋だけを残して、他はきれいに食べてしまった。虚ろに穴が開いた白い顔には、うっすらと娘のほほえみが残っているような気がした。
 鬼は懐に娘を抱いて家を出た。久しぶりに見る村の様子は以前とはずいぶん様子が変わっていて活気がなかった。廃屋になってしまった家もいくつか見られた。鬼の姿は森のなかに消えた。
 森に戻った鬼は、いつかの大木に背中を付けて座り込んだ。腕に娘を抱き、そっと目を閉じる。頬を撫でる風の気配を感じた。今、きっと空は晴れ渡って、日差しが地面に降り注いでいるのだろう。そういう穏やかさを知ったのは娘と出会ってからだった。
 目を閉じて鬼はただ眠った。いつしか鬼の身体は石に変わって、腕に抱いた娘まで飲み込んでいったが、それでも鬼は夢を見続けた。日差しが身体を濡らし、小鳥が耳に囁いても、鬼の目が開かれることはなかった。



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